現在、刀剣と言えば刀剣愛好家や刀剣女子達から多くの関心を寄せられ、美術品として鑑賞される物です。武器として活用された時代には、名将の愛刀であったことや、伝説を残した名刀など数々の逸話を持ちます。そんな刀剣がもたらされた弥生時代から古墳時代、刀剣は美術品や武器としての価値としてよりも、神への供物や、あるいは神そのものとして尊ばれてきました。こうした慣習が連綿と受け継がれ、神仏に対する感謝や崇敬の気持ちを込めて、神社や寺に刀剣を奉納する文化が根付いています。「伊勢神宮」をはじめ、三重県の神社や寺のご紹介と共に、奉納された日本刀について見ていきましょう。
伊勢神宮(外宮)
「伊勢神宮」(三重県伊勢市)は、約2,000年の歴史を持つ日本を象徴する聖地です。
そして伊勢神宮には「内宮」と「外宮」にそれぞれ正宮があり、内宮は「天照大御神」(あまてらすおおみかみ)を祀る「皇大神宮」(こうたいじんぐう)、外宮は衣食住の神「豊受大御神」(とようけのおおみかみ)を祀る「豊受大神宮」(とようけだいじんぐう)があります。それら2つを中心とした125社のお宮とお社を総称して伊勢神宮と言います。
伊勢神宮は、年間で約1,500回ものお祭りが開催されますが、伊勢神宮最大のお祭りは「式年遷宮」です。式年遷宮は20年に1度行われ、伊勢神宮すべての社殿や装束などを作り変える儀式のこと。その他に伊勢神宮は、絵画や刀剣、書籍など数々の国宝や重要文化財を所蔵しています。
本脇差は、伊勢神宮が運営・管理する日本初の私立博物館「神宮徴古館」(じんぐうちょうこかん:三重県伊勢市)が所蔵している日本刀。
作刀した鎌倉時代前期の刀工「有国」(ありくに)は、山城国(現在の京都府南部)で栄えた「粟田口派」(あわたぐちは)の実質的な開祖である粟田口6兄弟の五男。しかし有国の現存刀に関しては、在銘の物が少ないのか本刀以外の作例は確認されていません。
形状は、身幅の細い優美な鋒/切先(きっさき)をし、鍛えは板目肌で、地沸(じにえ)が細かく厚く付きます。刃文は細い直刃(すぐは)。茎(なかご)は折返銘と言い、刀を短くする際に茎を切らずに反対側に折り返して銘を残す手法です。
脇差 折返銘 有国
多度大社
「多度大社」(三重県桑名市)は、北伊勢地方の総鎮守とも言われる神社で、古墳時代の天皇「雄略天皇」(ゆうりゃくてんのう)の御代に創建されたと伝わります。
御祭神は「天津彦根命」(あまつひこねのみこと)と言い、伊勢神宮の主祭神である天照大御神の三男です。
そして多度大社は、伊勢神宮に向かう街道沿いにあることから伊勢神宮との関係も深く「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」(多度大社へ参拝しなければ、伊勢神宮参拝も片参りである)とも謡われました。
境内には本宮である多度神社と、別宮となる「一目連神社」(いちもくれんじんじゃ)があり、これらは「多度両宮」(たどりょうぐう)と呼ばれ、昔から人々の崇敬を集めました。別宮・一目連神社の御祭神は、天津彦根命の子「天目一箇命」(あめのまひとつのみこと)と言い、鍛冶の神であるとされているのです。
また、毎年5月に開催される「多度祭」では、「上げ馬神事」(あげうましんじ)が行われ例年参詣客で大賑わいを見せます。上げ馬神事は、南北朝時代に桑名を治めていた武家からはじまったとも伝えられ、700年以上に亘り続いてきました。若手の騎手が土壁の急斜面を駆け上がる迫力あふれる光景が大変見ものであり、三重県の無形民俗文化財にも指定された伝統ある神事です。
本短刀は、伊勢国の刀工集団「千子派」(せんごは)に属した「正重」(まさしげ)の作。正重は、戦国時代に活躍した千子派の初代「村正」(むらまさ)の弟子であり、村正の名跡を引き継いだ2代目・村正でもあります。
実は、千子派のはっきりとした記録が少ないことから、初代・村正作か正重や他の弟子達作か分からない刀もあるのです。前後することもありますが、おおよそ初代・村正の活動時期は永正年間(1504~1521年)の頃、正重は天文年間(1532~1555年)の頃だとされています。そして、本短刀の銘にある「正」の字が天文年間に多く残る村正銘に似ていることから、活動時期を鑑みて正重作で間違いないと鑑定されました。
作柄は、形状が平造りで表裏に腰樋(こしび)があり、さらに添樋(そえび)は茎まで彫られた掻流し(かきながし)樋。鍛えは板目肌と柾目肌(まさめはだ)を交えた「柾流れ」が冴えています。刃文の湾れ(のたれ)に互の目(ぐのめ)を交えた表裏揃った模様は、千子派特有の「村正刃/千子刃」の焼き入れです。銘文には、鍛冶の神である天目一箇命に奉納したことを示す「多度山権現」と切られています。
短刀 銘(表)正重(裏)多度山権現
「神館神社」(こうだてじんじゃ:三重県桑名市)は、「倭姫命」(やまとひめのみこと)が天照大御神の鎮座する場所を探して、大和国や伊勢国をめぐったときに立ち寄った場所とされています。伊勢の地に神宮鎮座が決まったあと、神領(神社の領地)として神館神社が創建されました。神領の神社のことを「神明社」とも言うことから、「神館神明宮」・「神館明神」とも称されます。
神館神社には、南北朝時代の瓦師「岡本信行」作の「鉄釉菊花文御神酒壷」や、桑名の刀工・村正の刀剣などを所蔵。どれも三重県桑名市の指定文化財となっている貴重な品が揃います。
本太刀は、室町時代後期から戦国時代に伊勢国で作刀した刀工、初代・村正の刀剣です。村正は伊勢国で隆盛した千子派の開祖であり、実戦に適した斬れ味の良い出来映えから多くの戦国武将達に愛用されました。
年紀に記された通り「天文二十二年」(1553年)に神館神社に奉納された物ですが、同銘の剣と合わせて2振が奉納されたのです。太刀と剣、別種の刀剣が同時に奉納されるのは稀なことで、文化史的な観点から見ても価値の高い刀剣だと言えます。
作柄としては、茎が「たなご」という魚の腹に似せた「たなご腹形」という独特な形をしています。このたなご腹形とは、茎の中心から茎先(下端)に向けて細くなる形のことで、千子派の刀工に多い形状です。
その茎には、「勢州桑名藤原朝臣村正作/天文廿二年九月吉日」の村正が「藤原」姓を名乗っていた時期の長銘が切られています。また、佩表(はきおもて:腰に付けた状態での表)の鎬地(しのぎじ)には「神立」と彫刻が刻まれ、意味は「雷」や「雷鳴」、「にわか雨」のことです。
本太刀は、神館神社の所有となっていますが、現在は「桑名市博物館」(三重県桑名市)に寄託。そのため展示などは桑名市博物館にて行われます。
太刀 銘 勢州桑名藤原朝臣村正作/天文二十二年九月
三重県護国神社
「三重県護国神社」(三重県津市)は、「禁門の変」や「戊辰戦争」、「第2次世界大戦」の三重県民による戦没者を祀る神社です。
もともとは1869年(明治2年)に11代津藩藩主「藤堂高猷」(とうどうたかゆき)が戊辰戦争で亡くなった藩士らの霊を祀るために「津八幡宮」(つはちまんぐう:三重県津市)の境内に建て、「表忠社」(ひょうちゅうしゃ)と名付けたことがはじまりだと伝わります。
三重県護国神社の本殿は、伊勢神宮の外宮「東宝殿」を下賜され移築した建物です。1953年(昭和28年)の第59回の式年遷宮時の折に譲り受け、1957年(昭和32年)に当神社に造営復興しました。そして境内にある「儀式殿」も、外宮の「四丈殿」(よじょうでん)を下賜された建物で、ここでは結婚式などを執り行います。
本刀は、美濃国(現在の岐阜県南部)出身の刀工「藤原永貞」(ふじわらながさだ)の作品です。江戸時代末期に生まれ、本名は「松井治一郎」(まついじいちろう)と言います。
鍛刀の技術は「美濃千手院道永」(みのせんじゅいんみちなが)に学び、さらなる研鑽のために伊勢・江戸・京都へも旅に出ました。本刀は、伊勢国に駐留した際に作刀ののち奉納したと伝わります。
作柄は、形状が鎬造り(しのぎづくり)で重ね厚く、掻流し樋に加え添樋が掻かれた刀身。鍛えは小杢目肌(こもくめはだ)で、刃文は大乱れです。茎は生ぶ茎(うぶなかご)で、白鞘入りの拵(こしらえ)となっています。
刀 銘 濃州御勝山住藤原永貞/萬延元年庚申八月吉日 於洞津鍛山田栄徳君佩刀松井治一郎