三重(桑名)の刀剣情報

桑名の刀工 村正とは

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日本刀は短い物でも数十年、長くなれば数百年もの歴史を持ち、怪異や伝説を持つ日本刀も少なくありません。鬼を斬った、稲妻を切り裂いた、狐が憑いているなど、不可思議な伝説が多いほど人々は日本刀の虜になります。なかでも妖刀伝説として最も有名な日本刀が「村正」(むらまさ)ではないでしょうか。村正の打つ日本刀は、廉価でありながら非常に斬れ味が優れ実戦に向いていることから、当時の「現代刀」では最高品質を誇っていたと言います。
村正の住んだ伊勢国(現在の三重県北中部)から近い三河国(現在の愛知県東部)の武士達からも重宝されており、「徳川家康」もそのひとりでした。しかし、のちに村正が徳川家を祟ったと考えられ、江戸時代になる頃には徳川家康は村正を所持することを憚るようになっていきます。このような不思議な刀を打つ村正一派のご紹介と、徳川家にまつわる「村正妖刀伝説」について追っていきましょう。

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村正の刀工

村正」(むらまさ)とは、通称「千子村正」(せんごむらまさ)を名乗り、伊勢国桑名郡(現在の三重県桑名市)で南北朝時代後期から室町時代前期に活動した刀工です。この一派を「千子派」(せんごは)と言い、開祖である初代・村正は、主に1501~1555年頃(文亀~天文年間)に活動しました。そのあとも6代以上続き、江戸時代の1668年(寛文8年)頃まで千子派の一派は存続したと言われているのです。

初代「村正」

初代・村正

初代・村正

初代・村正の出身地や、習得した鍛刀技術については諸説あり、定説は定まっていません。

出身地についてもいくつかの候補地があり、現在の岐阜県関市もしくは岐阜県大垣市赤坂町だと言われています。

そして、「美濃伝」の関物の作風に似ていることや、「兼永」(兼永は関七流刀鍛冶)、「於関村正」とを切った脇差があることから、かかわりを持っていたことが分かります。

美濃国(現在の岐阜県)での修行を終えた村正は伊勢国桑名に移り住み、「楠木正成」(くすのきまさしげ)の玄孫にあたる「楠木正重」(くすのきまさしげ)を弟子にしました。

または初代・村正が、美濃国ではなく伊勢国出身であった場合の逸話によると、「千子」と名乗ったのには、村正の母が浄土真宗の寺院で「千手観音」を信仰・祈願していたことによるとあります。この祈りが届いたことで村正が誕生し、村正は自らを千手観音の申し子であるとして、千子姓を名乗るようになったとも伝わります。

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正重

村正の弟子となった正重は、村正の門人のなかでは最も力量があり、その実力は師である村正を凌駕したとされる人物。正重が村正の門下に入った理由として、正重の出身地、楠町の自治体史「楠町史」には、楠木正成の一族として南朝を守るための名刀を作る目的や、室町幕府からの詮索を避ける目的があったのではないかと書かれています。

もしそうだったとしても正重は、村正第一の高弟として千子派内の正重一派を成長させ、千子派自体も伊勢国最大の流派へと形成するのに大いに尽力した人物であると言えます。

正真

正真」(まさざね)は千子派の代表的な刀工ですが、のちに三河国に移った「三河文殊派」(みかわもんじゅは)の刀工。徳川四天王のひとり「酒井忠次」(さかいただつぐ)の七男「松平甚三郎」(まつだいらじんざぶろう:のちの庄内藩家老)の家に伝来する日本刀「猪切」(いのししぎり)は正真の作になります。

徳川家康」と狩りに出た際、酒井忠次が所持していた「千子正真」で猪を倒したことを記念して(なかご)に猪切の金象嵌銘を入れたことが由来です。現在、猪切は国宝に指定され「致道博物館」(山形県鶴岡市)にて所蔵されています。

致道博物館のYouTube動画

致道博物館

徳川家にまつわる村正妖刀伝説

徳川家康

徳川家康

江戸時代当時、村正は徳川家に仇なす妖刀だという理由から村正を所持していた大名のなかには、徳川家を憚って「村正銘」を改竄する者や、日本刀を折る者まで続出しました。

そんな村正妖刀伝説を裏付けるように江戸幕府の公式史書である「徳川実紀」や「大猷院殿御實紀」などにも記載があります。

記録によれば妖刀といった言葉はなく、「忌ならひ」や「たゝり」(たたり)、「不吉の例あり」というような表現が用いられるのみでしたが、当時の大名や庶民の間では村正を妖刀だと忌避する明確な理由がありました。どのようにして村正が徳川家に害を及ぼしたかについてご紹介します。

徳川家康の祖父「松平清康」殺害事件

1535年(天文4年)に、敵対していた尾張国(現在の愛知県)の「織田信秀」(おだのぶひで)との戦に出陣した「松平清康」(まつだいらきよやす)は、家臣の「阿部正豊」(あべまさとよ)が村正の刀で惨殺。阿部正豊の父が敵に内通している嫌疑をかけられていたので、父が粛清されたと早合点した阿部正豊により、徳川清康は殺されてしまいました。

徳川家康の父「松平広忠」殺害事件

1545年(天文14年)に、「松平広忠」(まつだいらひろただ)の家臣「岩松八弥」(いわまつはちや)が酒に酔った勢いで大暴れし、徳川広忠を切り付けます。このとき使われた脇差も村正でした。そして切り付けられた傷がもとで徳川広忠は亡くなったのです。

今川家での人質時代

徳川家康は少年から青年期の間、今川家への人質として駿府国(現在の静岡県中部・北東部)で過ごしていました。まだ少年だった頃、徳川家康は村正の小刀で怪我をし、長いこと傷口は治らず傷みに悩まされたと伝わります。

徳川家康の正室と長男の切腹

織田信長」より、徳川家康の正室「築山殿」(つきやまどの)と長男「徳川信康」(とくがわのぶやす)が、「武田信玄」との内通を疑われ1579年(天正7年)に切腹。このときの介錯に使われた日本刀が村正でした。

関ヶ原の戦いにて

1600年(慶長5年)に「関ヶ原の戦い」で西軍の敗走直後、「織田有楽斎(織田長益)」(おだうらくさい[おだながます]:織田信長の弟)の息子「織田長孝」(おだのぶたか)が徳川家康の陣にやってきたときのこと。

織田長孝の持つ槍が敵将の頭をごと貫きましたが、刃こぼれひとつしなかったと聞き、徳川家康はその槍を見せて貰うことにしました。しかし、徳川家康が槍を手にすると手を滑らせ指を切ってしまいます。このときの槍もまた村正でした。

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村正の日本刀を所持していた罪

1634年(寛永11年)に、長崎奉行を務めていた「竹中重義」(たけなかしげよし)が「浅草寺」(現在の東京都台東区)で切腹を命じられました。その罪状が「徳川家の不吉の例である村正の脇差を24振も所持しているのは、御当家に対する不忠の義である」として、本来ならば流刑であったところを、切腹を命じられています。

実は村正の刀を持っていた

村正の日本刀は、所持しているだけで罰されたと記録にも残っていますが、実は禁止されていたわけではなかったようです。

なぜなら徳川四天王のひとり「本多忠勝」(ほんだただかつ)は、千子派から分かれた三河文殊派の刀工・正真の打った名槍「蜻蛉切」(とんぼぎり)を所持していたからです。そして前述した酒井忠次も、正真作の猪切と号を名付けた日本刀を所持していました。このことから、村正を完全に禁止していたとは言い切れないのです。

さらに言えば、徳川家康の形見分けとして、尾張藩初代藩主「徳川義直」(とくがわよしなお)に贈られた日本刀に「刀 銘 村正」があり、遺品台帳「駿府御分物御道具帳」にも記録が残っています。

こうした理由から、徳川家康は特に村正を嫌っていなかったという説が浮上。「金鯱叢書45」(きんこそうしょ45)掲載の「『刀 銘 村正』の伝来と妖刀村正伝説」には、「徳川家康が本当に村正を嫌っていたなら遺産として遺すことはなかったはずだ」というように書いているのです。

天下三名槍 写し制作プロジェクト
名古屋刀剣ワールドにて行われている「天下三名槍 写し制作プロジェクト」をご紹介します。

天下三名槍「蜻蛉切」(写し)のYouTube動画

天下三名槍「蜻蛉切」(写し)

村正の特徴

刀身は、反りが少なく肉付きが薄いのですが、(しのぎ)が高く全体的にどっしりとした見た目をしていることから、「これは良く斬れる」と思わせる姿をしています。また見た目だけではなく、実際よく斬れる日本刀だというのが当時の評価です。

たなご腹形の茎

たなご腹形の茎

刃文は、刀身の表と裏で焼き入れの模様を一致させる「村正刃/千子刃」(むらまさば/せんごば)となっています。

こうした個性的な特徴は、村正とその弟子達へと受け継がれています。湾れ(のたれ)や互の目(ぐのめ)など、ゆるくうねった刃文を好んで焼いたことも、村正から覇気を感じたという要素のひとつです。

茎は、たなごという魚の腹に似せた「たなご腹形」に作っています。たなご腹形とは、茎の中心から茎先(下端)に向けて細くなる形のことです。名跡を継いだ村正のなかには、たなご腹形になる角度を強くする場合もあり、これについては「村正茎」(むらまさなかご)とも言います。

村正の妖刀伝説は後世の創作ではありますが、村正の特徴というのは刃の力強さや鋭さにあり、こうした魅力が妖刀として拍車をかけたとも言えます。刀剣研究の大家「本間順治」氏によれば、村正は刀剣美術史的にも南北朝時代から室町時代を代表する刀工のひとりであると評価をしているのです。

刀 銘 村正 俊次 俊広
刀 銘 村正 俊次 俊広
村正 俊次 俊広
鑑定区分
重要刀剣
刃長
73.2
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
短刀 銘 (金象嵌)村正 日洲(花押)
短刀 銘 (金象嵌)村正 日洲(花押)
村正
鑑定区分
特別保存刀剣
刃長
24.8
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
名古屋刀剣博物館 名古屋刀剣ワールド
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三重県にある重要文化財の刀剣

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三重・桑名の刀工 日本刀

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日本刀は、主に5つの地域によって「大和伝」・「山城伝」・「備前伝」・「相州伝」・「美濃伝」に分類することができ、これらをまとめて「五箇伝」と総称します。それぞれ機能美や典雅さ、豪壮さなど特色を持ち、地域ごとに鍛刀の方法にも違いがありました。現在の三重県は五箇伝に含まれる地域ではありませんが、著名な刀工を輩出しています。妖刀伝説で名を残した「村正」(むらまさ)や、伊勢国(現在の三重県)の藤堂家お抱え鍛冶である「和泉守兼重」(いずみのかみかねしげ)など多くの刀工がいるのです。三重県桑名の刀工が必要とされた理由と刀工達について解説します。

三重・桑名の刀工 日本刀

刀剣がある三重・桑名の神社仏閣

刀剣がある三重・桑名の神社仏閣
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桑名市博物館

桑名市博物館
桑名市立博物館は、1971年(昭和46年)に「桑名市立文化美術館」として産声を上げました。1985年(昭和60年)に増築され、三重県初の市立博物館となる「桑名市博物館」としてリニューアル。江戸時代に老中として「寛政の改革」を行なった「松平定信」(まつだいらさだのぶ)に関連する史料や、桑名出身の豪商「沼波弄山」(ぬなみろうざん)を始祖とする「古萬古」(こばんこ)、「萬古焼」(ばんこやき)に加え、地元の民俗資料や桑名に関連した浮世絵など市民の方々が寄贈された作品を中心に収蔵・展示しており、桑名の歴史を学ぶことができる博物館です。

桑名市博物館