三重(桑名)の刀剣情報

三重県にある重要文化財の刀剣

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三重県は、江戸時代に流行したお伊勢参りにはじまり、世界遺産の「熊野古道」、伊賀地方の忍者伝説など観光資源が盛りだくさん。そして重要文化財などに指定された歴史的にも芸術性の高い建造物や工芸品、古典籍なども勢揃いです。そんな三重県にある重要文化財に指定された刀剣についてご紹介します。

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毛抜形太刀

神宮徴古館

神宮徴古館

「毛抜形太刀」(けぬきがたたち)は、「伊勢神宮」(三重県伊勢市)が管理している日本初の私立博物館神宮徴古館」(じんぐうちょうこかん:三重県伊勢市)所蔵の刀剣です。

本太刀は、平安時代中期頃に登場した「日本刀」の原型とも言われる刀剣。

この毛抜形太刀とは、東北地方の「蝦夷」(えぞ)達が用いた「蕨手刀」(わらびてとう)をもとに改良され、「衛府」(えふ:警護を担う官人)らが用いました。そして本太刀は、「平将門の乱」で「平将門」(たいらのまさかど)を討ち取った「藤原秀郷」(ふじわらのひでさと)が佩刀したと伝わります。

本太刀は、全体的に刀身の反りが浅く、一見すると直刀のようにも見える形状です。こうしたことから、直刀から反りの深い湾刀(わんとう)へと変わる過渡期の物だということが分かります。(こしらえ)は、鉄の素地に銀の板を貼った毛抜形透(けぬきがたすかし)に、竜胆の唐草文を配した銀覆輪(ぎんぷくりん:意匠の縁を銀で覆うこと)です。

平安時代前期の刀剣は、完全な形での作例が少ないのですが、本太刀はと拵の両方が完全な状態で保存できていることから大変貴重な1振だと言えます。

毛抜形太刀

毛抜形太刀

平将門
戦国武将を主に、様々な珍説をまとめました。

「神宮徴古館」YouTube動画

神宮徴古館

太刀(銘 吉信)附 糸巻太刀拵

皇大神宮

皇大神宮

「太刀( 吉信)附 糸巻太刀拵」(たち めい よしのぶ つけたり いとまきたちこしらえ)は、伊勢神宮が所蔵している日本刀です。

伊勢神宮は「平清盛」(たいらのきよもり)や「織田信長」など、歴史上多くの偉人達が参拝に訪れ、刀剣などを奉納しています。

本太刀もそうした偉人のひとり、4代将軍「徳川家綱」(とくがわいえつな)によって奉納されました。

奉納したことに関しては、江戸幕府の公式史書「徳川実記」(とくがわじっき)に記載があります。1659年(万治2年)の11月に、「皇大神宮」(こうたいじんぐう:伊勢神宮の内宮にある正宮)の臨時遷宮に奉納した物であると書かれているのです。

本太刀を作刀したのは、備前国(現在の岡山県東南部)の刀工「吉信」(よしのぶ)だと伝わります。吉信は、鎌倉時代中期から鎌倉時代後期にかけて作刀していたと考えられる、刀工集団「福岡一文字派」の刀工です。

形状は反りが高く踏張りのある姿が特徴的。鍛えは小杢目肌(こもくめはだ)と板目肌(いためはだ)交じりの地鉄(じがね)をしており、刃文出来(においでき)の丁子乱(ちょうじみだれ)です。銘は、吉信と2文字に切る二字銘(にじめい)。そして立派な拵も付属しており、(さや)の上部を柄糸と同じ糸で巻いた糸巻太刀拵が用いられています。

糸巻太刀拵は、鎌倉時代に流行し、戦国時代後期以降は儀式に使用されることが増え、「武家の権力の象徴」として「武家太刀拵」とも呼ばれました。

太刀(銘 吉信)附 糸巻太刀拵

太刀(銘 吉信)附 糸巻太刀拵

太刀 銘 不明(伝 吉包)

金剛證寺

金剛證寺

「太刀 銘 不明[伝 吉包]」(たち めい ふめい[でん よしかね])は、「金剛證寺」(こんごうしょうじ:三重県伊勢市)が所蔵する日本刀です。

金剛證寺は、伊勢神宮の鬼門(北東)の方角を守る臨済宗の寺院として知られ、伊勢神宮へ参詣したあとは金剛證寺へも詣でるのが良いとされてきました。

本太刀は、金剛證寺が所有する日本刀ですが、無銘であるため刀工の名前は不明となっています。そこで、江戸時代の刀剣鑑定家・本阿弥家(ほんあみけ)の鑑定により備前国の刀工集団・福岡一文字派の「助包」(すけかね)だと鑑定されました。

しかし、「古社寺保存法」(こしゃじほぞんほう)に則って1913年(大正2年)に国宝指定を受けた際、同じく福岡一文字派の「吉包」(よしかね)へと刀工名が変わります。さらに、1950年(昭和25年)に「文化財保護法」により国宝から重要文化財に変更。非公開の日本刀ではありますが、現在も「伝 吉包」作として金剛證寺に保管されています。

本太刀を最初に所有していたのは、金剛證寺の寺伝によれば「源頼朝」(みなもとのよりとも)の父「源義朝」(みなもとのよしとも)でした。「平治の乱」で京都から敗走した源義朝は、尾張国知多郡野間(現在の愛知県知多郡美浜町野間)にて殺害されましたが、同地の豪族「野間宗祐」(のまそうすけ)が本太刀を預かり一時的に所有。そして1392年(明徳3年)頃に、野間宗祐により金剛證寺の中興の祖(ちゅうこうのそ:統治者のうち、危機的な政権の回復といった功績があった者のこと)である仏地禅師(ぶっちぜんじ)へと寄進したと伝わります。

本太刀は、平安時代に作刀された日本刀であり、形状は鎬造り(しのぎづくり)、深い腰反り、刀身に二筋樋(ふたすじひ)が彫られた姿。鍛えは板目肌に小板目が交じり、刃文は丁子乱。長期間に亘り寺院で保管されていたこともあり、生ぶ茎(うぶなかご)の健全な状態をしています。

薙刀 銘 住吉大明神主(以下不明)八幡大菩薩/暦応五年(一字不明)月日備中国住直次作

「薙刀 銘 住吉大明神主[以下不明]八幡大菩薩/暦応五年[一字不明]月日備中国住直次作」(なぎなた めい すみよしだいみょうじんぬし[いかふめい]はちまんだいぼさつ/れきおうごねん[いちじふめい]つきひびっちゅうのくにじゅうなおつぐさく)は、「長盛寺」(ちょうせいじ:三重県多気郡多気町)が所蔵している薙刀で、長盛寺の寺伝によると戦国大名「北畠具教」(きたばたけとものり)が所持していたと伝わります。

北畠具教は、織田信長の伊勢国侵攻により織田信長に1度は降りましたが、北畠具教は織田信長に対し不満を募らせ続けました。そして1576年(天正4年)の「三瀬の変」(みせのへん)で戦を起こしたものの、織田信長に敗北。本薙刀は、北畠具教が落ち延びた際に長盛寺周辺に移り住み菩提を弔っていたと言われ、それがいつしか長盛寺に伝来したのです。

本薙刀は、備中国(現在の岡山県西部)に栄えた刀工一派「青江派」(あおえは)の「直次」(なおつぐ)が鍛えた刀剣。直次は、「左兵衛尉」(さひょうえのじょう)とも称しました。この青江派は時代別に「古青江」(こあおえ)・「中青江」(ちゅうあおえ)・「末青江」(すえあおえ)に分けられ、直次は鎌倉時代後期から南北朝前期頃に活躍した中青江の刀工です。

薙刀 銘 住吉大明神主(以下不明)八幡大菩薩

薙刀 銘 住吉大明神主(以下不明)八幡大菩薩

中青江は、古青江のように反りが強いのですが、身幅が広く刃文は丁子乱で、鎌倉時代の日本刀らしい豪壮な姿をしています。さらに中青江は、銘に年月日や居住区を切る者が多く、本薙刀にもそうした特徴が表れているのです。

年紀が「暦応5年」と切られていることから、西暦1342年に作刀された貴重な1振として、本薙刀は1913年(大正2年)に国の重要文化財に指定されています。現在、一般公開はされていません。

五箇伝の名工
日本刀(刀剣)の歴史に名を残した、数々の名工をご紹介します。

太刀 無銘 伝国俊 附 糸巻太刀拵

「太刀 無銘 伝国俊 附 糸巻太刀拵」(たち むめい でんくにとし つけたり いとまきたちこしらえ)は、紀州徳川家の初代藩主「徳川頼宣」(とくがわよりのぶ)が所持した日本刀です。そして1884年(明治17年)に、紀州徳川家最後の藩主となった14代「徳川茂承」(とくがわもちつぐ)が、「南龍神社」(なんりゅうじんじゃ)に奉納したと伝わります。

南龍神社は、別名「南龍公」(なんりゅうこう)と呼ばれた徳川頼宣を祀った神社で「紀州東照宮」(きしゅうとうしょうぐう:現在の和歌山県和歌山市)の麓に創建されましたが、1953年(昭和28年)に廃社となりました。

本太刀は現在、「合同会社苗秀社」(ごうどうがいしゃびょうしゅうしゃ)が所蔵していますが「東京国立博物館」(東京都台東区)へと寄託されています。

そして本太刀を作刀したのは、山城国(現在の京都府南部)の「来派」(らいは)の刀工「国俊」(くにとし)です。本太刀は無銘ではありますが「伝国俊」(でんくにとし)として伝来。国俊の作品には、国俊と銘を切る「二字国俊」作と、「来国俊」(らいくにとし)と銘を切る来国俊作の2種類があります。まだどちらの作品なのかまでは分かっていませんが、二字国俊の特徴である鋒/切先(きっさき)が短く詰まった形状の猪首鋒/猪首切先(いくびきっさき)を備えています。

その他の作柄は、形状が鎬造りの三つ棟(みつむね)。鍛えは小板目肌がよく詰み地沸(じにえ)が付いた地鉄をしています。刃文は丁子乱れ(よう)などがよく入り、拵は鎌倉時代の流行した糸巻太刀拵です。

東京国立博物館の特集コンテンツ
刀剣をはじめ貴重なコレクションが豊富な国内で最も長い歴史をもつ博物館をご紹介します。
刀剣ワールド
刀剣ワールドでは、美術的に価値の高い刀剣・日本刀や甲冑(鎧兜)にまつわる様々なコンテンツを公開しております!
名古屋刀剣博物館 名古屋刀剣ワールド
国宝や重要文化財、重要美術品といった貴重な日本刀などがご覧頂けます。

三重県にある重要文化財の刀剣

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三重・桑名の刀工 日本刀

三重・桑名の刀工 日本刀
日本刀は、主に5つの地域によって「大和伝」・「山城伝」・「備前伝」・「相州伝」・「美濃伝」に分類することができ、これらをまとめて「五箇伝」と総称します。それぞれ機能美や典雅さ、豪壮さなど特色を持ち、地域ごとに鍛刀の方法にも違いがありました。現在の三重県は五箇伝に含まれる地域ではありませんが、著名な刀工を輩出しています。妖刀伝説で名を残した「村正」(むらまさ)や、伊勢国(現在の三重県)の藤堂家お抱え鍛冶である「和泉守兼重」(いずみのかみかねしげ)など多くの刀工がいるのです。三重県桑名の刀工が必要とされた理由と刀工達について解説します。

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桑名の刀工 村正とは

桑名の刀工 村正とは
日本刀は短い物でも数十年、長くなれば数百年もの歴史を持ち、怪異や伝説を持つ日本刀も少なくありません。鬼を斬った、稲妻を切り裂いた、狐が憑いているなど、不可思議な伝説が多いほど人々は日本刀の虜になります。なかでも妖刀伝説として最も有名な日本刀が「村正」(むらまさ)ではないでしょうか。村正の打つ日本刀は、廉価でありながら非常に斬れ味が優れ実戦に向いていることから、当時の「現代刀」では最高品質を誇っていたと言います。村正の住んだ伊勢国(現在の三重県北中部)から近い三河国(現在の愛知県東部)の武士達からも重宝されており、「徳川家康」もそのひとりでした。しかし、のちに村正が徳川家を祟ったと考えられ、江戸時代になる頃には徳川家康は村正を所持することを憚るようになっていきます。このような不思議な刀を打つ村正一派のご紹介と、徳川家にまつわる「村正妖刀伝説」について追っていきましょう。

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刀剣がある三重・桑名の神社仏閣

刀剣がある三重・桑名の神社仏閣
現在、刀剣と言えば刀剣愛好家や刀剣女子達から多くの関心を寄せられ、美術品として鑑賞される物です。武器として活用された時代には、名将の愛刀であったことや、伝説を残した名刀など数々の逸話を持ちます。そんな刀剣がもたらされた弥生時代から古墳時代、刀剣は美術品や武器としての価値としてよりも、神への供物や、あるいは神そのものとして尊ばれてきました。こうした慣習が連綿と受け継がれ、神仏に対する感謝や崇敬の気持ちを込めて、神社や寺に刀剣を奉納する文化が根付いています。「伊勢神宮」をはじめ、三重県の神社や寺のご紹介と共に、奉納された日本刀について見ていきましょう。

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桑名市博物館

桑名市博物館
桑名市立博物館は、1971年(昭和46年)に「桑名市立文化美術館」として産声を上げました。1985年(昭和60年)に増築され、三重県初の市立博物館となる「桑名市博物館」としてリニューアル。江戸時代に老中として「寛政の改革」を行なった「松平定信」(まつだいらさだのぶ)に関連する史料や、桑名出身の豪商「沼波弄山」(ぬなみろうざん)を始祖とする「古萬古」(こばんこ)、「萬古焼」(ばんこやき)に加え、地元の民俗資料や桑名に関連した浮世絵など市民の方々が寄贈された作品を中心に収蔵・展示しており、桑名の歴史を学ぶことができる博物館です。

桑名市博物館