三重県・岐阜県の風景が描かれた浮世絵

伊勢神宮が描かれた浮世絵
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三重県は、古代より日本を象徴する大神宮である「伊勢神宮」(三重県伊勢市)が鎮座している神聖な場所。伊勢神宮には、日本人すべての祖神とされる「天照大御神」(あまてらすおおみかみ)がお祀りされています。江戸時代には「お蔭参り」と称して神様の「おかげ」にあやかろうとする多くの人々が伊勢神宮へ参詣し、賑わいを見せていました。伊勢神宮の概要と、江戸時代に流行した名所・伊勢神宮が描かれた浮世絵をご紹介します。

伊勢神宮とは

伊勢神宮(外宮)

伊勢神宮(外宮)

「伊勢神宮」は三重県伊勢市に鎮座し、2,000年の歴史がある日本で最も高位の宮居とされる神社です。

人々から「お伊勢さん」と呼ばれ親しまれている伊勢神宮は、正式名称を「神宮」と言い、通称「内宮」(ないぐう)と呼ばれる「皇大神宮」(こうたいじんぐう)と、「外宮」(げくう)と呼ばれる「豊受大神宮」の2ヵ所の正宮と、さらに付属する123ヵ所もの宮社によって成り立っています。

内宮は日本の皇祖神で、日本国民の大御祖神(おおみむやがみ)である「天照大御神」を主祭神として祀られている宮社。天孫降臨(てんそんこうりん:天照大神の孫・瓊瓊杵尊[ににぎのみこと]が高天原[たかまがはら:日本神話において神々が住まう天上の国]から日向国[現在の宮崎県]に降り立った伝説)以降、天照大御神は皇室で祀られていましたが、今から約2,000年前、「倭姫命」(やまとひめのみこと)が天照大御神のご神託を受け、現在の伊勢神宮がある場所にお祀りされることになったとされています。

一方、外宮は伊勢神宮が誕生してから約500年後に定められた宮社です。天照大御神のお食事を司り、衣食住や産業の守り神でもある「豊受大御神」(とようけのおおみかみ)がお祀りされています。

また、三種の神器のひとつ「八咫鏡」(やたのかがみ)が天照大御神のご神体として祀られている神社であり、年間に数多の祭典が行われている伊勢神宮は、多くの参詣者でにぎわうパワースポットです。

伊勢神宮の浮世絵と名所絵の流行

名所絵とは、日本各地に存在する風光明媚な観光スポットや名跡を描いた風景画のことで、浮世絵における人気のジャンルのひとつです。

江戸時代は街道が整備されたことや参勤交代が行われたこと、貨幣の流通が進んだことなどが要因となり、人々が遠く離れた土地へ行き、安全に旅を行えるようになった時代。これにより、江戸時代後期には「旅行ブーム」が巻き起こり、数多くの名所絵が描かれるようになったのです。

とは言え、当時の庶民は自由に藩を出ることができず、参詣や湯治などの限られた目的のためでなければ旅行を認められていませんでした。そのため、人々の間では伊勢神宮へ参宮する「お蔭参り」が流行。江戸からは片道15日間、大坂からは5日間、名古屋からは3日間の道程で、人々はお蔭参りのついでに京都や大阪などへ立ち寄り、様々な名所を観光していました。

名所絵には風景を美しく描いただけの錦絵も存在しましたが、旅行が流行すると、その土地の案内図としての役割を持った浮世絵も誕生します。特に、多くの人がお蔭参りへ訪れるようになったことで、伊勢神宮を主題とした浮世絵が数多く描かれるようになりました。

住む土地から遠く離れた伊勢神宮などの名所は、電車や飛行機などの交通の便が発達していなかった時代において、一生に一度行けるかどうかも分からない場所。庶民は旅へ強い憧れを抱くようになり、名所絵を手に取ってその地に思いを馳せたのです。

伊勢神宮が描かれた名所絵

ここからは、名古屋刀剣博物館「刀剣ワールド」(愛知県名古屋市)が所蔵する、伊勢神宮が描かれた浮世絵をご紹介します。

梅翁通人摹「伊勢内宮外宮之図」

伊勢内宮外宮之図

伊勢内宮外宮之図(所蔵:刀剣ワールド財団)

「伊勢内宮外宮之図」(いせないぐうげくうのず)は、伊勢神宮の内宮と外宮の様子を描いた名所浮世絵です。

右側に内宮、左側に外宮が描かれており、内宮には天照大神が祀られている「天照皇大神宮」だけでなく、「東宝殿」や「西宝殿」など、内宮各所に存在する建物が描かれる地図のような描写が存在。外宮においても、豊受大御神が祀られている「豊受大神宮」のみならず、「御餅殿」や「瑞垣御門」などの各所の名称が細かく記されていることが分かります。

浮世絵内には各宮社の案内の他にも、宝物の絵や「夫婦岩」(めおといわ)で有名な「二見浦」(ふたみがうら)、伊勢神宮に向かう人々が通行する「宮川橋」など、複数の観光名所が描かれました。このことから、本浮世絵はガイドマップの役割も果たしていたと考えられているのです。なお、本浮世絵は現在、名古屋刀剣博物館「刀剣ワールド」が所蔵しています。

制作者の署名である落款(らっかん)には、「梅翁通人 摹」(ばいおうつうじん もする)と記されています。署名にある「通人」とは、「物事に通じている人物」を表し、摹とは「模する」、つまりは「真似る」という意味。本浮世絵は、伊勢神宮や伊勢の事情に詳しい人物が、何らかの作品を真似て描いたのだと推察できます。

歌川貞秀作「伊勢御参宮之図」

歌川貞秀 作「伊勢御参宮之図」

歌川貞秀 作「伊勢御参宮之図」(所蔵:刀剣ワールド財団)

「伊勢御参宮之図」(いせごさんぐうのず)は、1869年(明治2年)3月11日に行われた「明治天皇」が御輿に乗って伊勢神宮を参詣したときの様子を描いた浮世絵です。

本浮世絵は、内宮全体の様子が遠近法を用いた鳥瞰図的な構図で描かれており、天照皇大神宮の他にも、内宮に鎮座するいくつかの宮社やその名前が境内にある案内図のように描かれています。

その他、本浮世絵には天照皇大神宮に参詣する際の通り道である「宇治橋」や「一の鳥居」、「二の鳥居」、「五十鈴川」の様子など細かい部分まで描写され、明治天皇を描いた皇族絵でありながら、地図のように精緻な内宮の様子を知ることができるのが特徴です。また、左奥には二見浦において有名な、富士山の背後から昇る日の出の様子が描かれています。

伊勢神宮は皇祖神ですが、天皇が伊勢神宮に参拝した記録があるのは、明治時代以前においては、692年(持統7年)に参拝を行った「持統天皇」(じとうてんのう)のみ。明治天皇は持統天皇以来1,177年ぶりに伊勢神宮へ参拝した天皇となりました。

本浮世絵の落款(らっかん:作者の署名)にある作者「五雲亭貞秀」(ごうんていさだひで)とは、「歌川貞秀」(うたがわさだひで)の名前で知られる浮世絵師。江戸時代後期から明治時代に活躍した人物で、はじめは初代「歌川国貞」(うたがわくにさだ)に師事しました。

本絵図のような遠近法を用いた精緻な俯瞰図を得意とし、後世ではその作風から「空飛ぶ浮世絵師」と称されるほどの人物です。「日本八景づくし」や「大江戸十景」など、多くの名所絵を制作した他、役者絵や美人画、横浜絵や開化絵などの様々なジャンルの浮世絵を描いており、特に横浜絵の第一人者と言われています。

1867年(慶応3年)には、フランスで行われた「パリ万博」において、浮世絵師「歌川芳宗」(うたがわよしむね)と共に幕府出品の浮世絵師の総代となり、1868年(明治元年)の絵師番付では1位を獲得するほどの人気を誇りました。

歌川貞秀作「伊勢御遷宮參詣群集之圖」

歌川貞秀 作「伊勢御遷宮參詣群集之圖」

歌川貞秀 作「伊勢御遷宮參詣群集之圖」(所蔵:刀剣ワールド財団)

本浮世絵の落款にある「玉蘭齋貞秀」(ぎょくらんさいさだひで)とは、先述した伊勢御参宮之図を描いた歌川貞秀の別名です。

「伊勢御遷宮參詣群集之圖」(いせごせいぐうさんけいぐんしゅうのず)は、二見浦から五十鈴川も含めた伊勢神宮の外宮と内宮を俯瞰図で描いた作品で、伊勢神宮において20年に一度行われる祭事「式年遷宮」(しきねんせんぐう)に参詣する人々の様子が描かれています。

式年遷宮とは、20年に一度、社殿や神宝をはじめとするすべてを新調して、天照大御神に新しい宮社へお遷りいただく神事で、伊勢神宮最大のお祭りのこと。式年遷宮は1,300年の間変わらず繰り返されており、本浮世絵は、1869年(明治2年)に行われた際の式年遷宮の様子が描かれていると考えられます。

伊勢御遷宮參詣群集之圖には、内宮や外宮以外にも各社の所在地が丁寧に書き記されていることから、一種の観光案内でもあったと考えられており、伊勢神宮への観光促進の一助となりました。

歌川貞秀作「伊勢御遷宮之圖」

歌川貞秀 作「伊勢御遷宮之圖」

歌川貞秀 作「伊勢御遷宮之圖」(所蔵:刀剣ワールド財団)

「伊勢御遷宮之圖」(いせごせんぐうのず)は、伊勢神宮の内宮における式年遷宮の様子が描かれた作品です。

式年遷宮にはいくつもの神事がありますが、一般の人々が観覧できるのは限られた儀式のみ。本浮世絵に描かれた神遷しの祭事は一般的に観覧することができないため、とても貴重な作品と言えます。

神遷しの祭事は「遷御」(せんぎょ)と言われる、式年遷宮の中核をなす儀式です。天皇陛下が定めた時刻になると、伊勢神宮の奉仕員が御装束神宝を手に、古い本殿から新しい本殿へ移動します。

式年遷宮は、「上賀茂神社」(京都府京都市)や「宇佐神宮」(大分県宇佐市)などの伊勢神宮以外でも行われる神事ですが、伊勢神宮が日本で最も大きな規模を誇ることから、式年遷宮というと伊勢神宮の祭事を指すことがほとんど。20年に一度という期間で遷宮が行われるのは、「常若」(とこわか)という、常に新しく清浄であることが尊ばれる思想に基づいているのです。

伊勢神宮が描かれた浮世絵

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