戦国武将最強とも称される猛将「本多忠勝」(ほんだただかつ)。「徳川家康」を支え、生涯に57度も戦場へ赴いていますが、かすり傷ひとつ負ったことがないと言われるほど勇猛な武将で「徳川三傑」に列せられました。また「徳川四天王」、あるいは「徳川十六神将」のひとりとも呼ばれています。武術はもちろん、知略にも長けていた本多忠勝の生涯に迫ると共に、愛槍の「蜻蛉切」(とんぼきり)についてもご紹介しましょう。
本多忠勝の初陣は、1560年(永禄3年)の「大高城兵糧入れ」。「桶狭間の戦い」の前哨戦とも言われるこの戦いで13歳だった本多忠勝は、危険な任務を見事にやり遂げます。
1563年(永禄6年)の「三河一向一揆」の際には、一揆衆に味方する本多一族の中でも数少ない徳川方として大活躍。本多忠勝の働きぶりは徳川家康の目に留まり、愛用していた「蜻蛉切」と呼ばれる槍と共に一躍その名を馳せたのです。
本多忠勝が愛用していた蜻蛉切は、穂先に止まった蜻蛉が真っ二つになったという逸話からその名が付いた槍。
「天下三名槍」のひとつに数えられる名槍です。
「藤原正真」(ふじわらまさざね)によって作られたこの槍の柄の長さは、2丈(約6m)余り。
通常の長槍の柄が1丈半(約4.5m)だったことから、かなりの長さがあったことが分かります。
蜻蛉切と共に本多忠勝の武具として有名なのが、「鹿角脇立兜」(しかつのわきだてかぶと)。
鹿の角をモチーフにした脇立は、何枚もの和紙を貼り合わせて黒漆で塗り固められていました。
この鹿角脇立兜と蜻蛉切は、本多忠勝のトレードマークとも言える武具です。
本多忠勝が桑名城下で行った整備として最も有名なのが、「慶長の町割り」。これは、三重県の北東を流れる町屋川(現:員弁川)と、大山田川の流れを途中でせき止め、そこを外堀として利用することで現在の街並みの大部分を完成させた、今で言う都市計画事業です。
これにより桑名藩主本多家の菩提寺である「浄土寺」(三重県桑名市清水町)は、現在の場所に移転。また、今でも桑名市の中心部は慶長の町割りの名残をとどめています。
晩年を桑名藩主として過ごした本多忠勝は、1604年頃(慶長9年)から病気がちとなり江戸幕府の中枢から退きました。
そして1609年(慶長14年)には嫡男の「本多忠政」(ほんだただまさ)に家督を譲って隠居。翌1610年(慶長15年)10月に「桑名城」で病死したとされています。享年63歳でした。
浄土寺
本多忠勝の墓所は、三重県桑名市の浄土寺。
ただし、のちに旧領大多喜の「良玄寺」に分骨されたため、現在は浄土寺と良玄寺の2ヵ所にあります。浄土寺の門前には、かつて「飴忠」(あめちゅう)という飴屋がありました。
ここで女の幽霊が飴を買い求め、その飴で赤ん坊を育てたとの昔話があり、これにちなんで今でも8月23、24日の地蔵盆には「幽霊飴」という飴が売り出されます。
徳川家康に忠誠を誓った有能な家臣として知られる本多忠勝。彼については様々な逸話が残っています。
一言坂の戦いにおいて本多忠勝の戦いぶりを見た武田軍の武将「小杉左近」(こすぎさこん)は、「家康に過ぎたるものが2つあり、唐の頭に本多平八」と言う狂歌の落書きで本多忠勝を賞賛。唐の頭とは、唐牛の尾毛で飾った兜のことを指し、本多平八とは本多忠勝のことを指しています。つまりこの狂歌は「その兜と本多忠勝は徳川家康にはもったいない」と、本多忠勝を褒め称えているのです。
本多忠勝は、豊臣秀吉から「家臣にならないか」と熱烈なオファーを受けただけでなく、実は「織田信長」からも家臣として熱望されたことがありました。織田信長は本多忠勝のことを「花も実もかね備えた武将である」と褒め称え、側近に紹介。
しかし織田信長に対しては徳川家康が「余人に代え難い」と言って断り、豊臣秀吉に対しては本多忠勝本人が断りました。このように本多忠勝は、徳川家康のみならず織田信長や豊臣秀吉からも愛された武将だったのです。
本多忠勝の辞世の句。「主君の深い恩に報いることができなくなると思うと、死にたくはない」という意味で、晩年は病のこともあり、幕府の中枢からは距離を置いていた本多忠勝ですが、最後まで主君・徳川家康への忠誠心が変わることはありませんでした。
本多忠勝の愛槍であり、天下三名槍のひとつに数えられる名槍「蜻蛉切」は、現在「佐野美術館」(静岡県三島市)に寄託されています。
「刀剣ワールド財団」では、この蜻蛉切を正確に再現した写し「大笹穂槍 銘 学古作長谷堂住恒平彫同人(蜻蛉切写し)」(おおささほやり めい こさくにまなぶはせどうじゅうつねひらほりどうじん)を作刀。
大笹穂槍の特徴である笹の形をした優美な姿はもとより、魔を退けるとされる「三鈷剣」(さんこけん)と「梵字」(ぼんじ)の刀身彫刻も見事な出来映えとなっています。作刀したのは、「相州伝」を得意とし、数々の名作を手掛けた「上林恒平」(かんばやしつねひら)刀匠です。
銘にある「彫同人」とは、刀匠自身の手で刀身彫刻を施したことを意味しています。日本刀に彫るよりも蜻蛉切(写し)の方が難しい部分があったと言う上林刀匠。研師が研ぎ終わって完成した本槍を目にしたときは、改めて美しい槍であると感じ入ったとのことです。
今回は、戦国武将最強とも称される、徳川家康の懐刀・本多忠勝の生涯についてご紹介しました。槍の名手としても知られ、愛用の槍は天下三名槍のひとつ蜻蛉切。
この蜻蛉切と共に、鹿角脇立兜と呼ばれる巨大な鹿の角をモチーフとした脇立の付いた兜は、本多忠勝のトレードマークです。本多忠勝は生涯で57度戦場に立ち、かすり傷ひとつ負ったことがないとされるほど優れた武芸者であっただけでなく、知略にも長けた武将でした。
その証拠に主君の徳川家康が褒め称えたのはもちろん、かの織田信長や敵将であった豊臣秀吉までもが本多忠勝を家臣にしたいと熱望したのです。もし本多忠勝が現代に生きていたなら、きっと何か大きな仕事をやり遂げていたに違いありません。