徳川家康とゆかりのある三重県・岐阜県についてご紹介します。1542年(天文11年)に「岡崎城」(愛知県岡崎市)で誕生し、1616年(元和2年)に「駿府城」(すんぷじょう:静岡県静岡市葵区)で最期を迎えるまでの間、徳川家康は愛知県をはじめ、静岡県、三重県、岐阜県など東海地方を中心に数多くの活躍を見せました。
「徳川家康と三重県・岐阜県」では、「三大危機」のひとつ「伊賀越え」(現在の三重県西部)と、天下分け目の戦いとして知られている「関ヶ原の戦い」(岐阜県不破郡関ケ原町)を詳しく解説。また徳川家にかかわる妖刀村正、三重県桑名市の「桑名宗社」(春日神社)についてまとめました。

「伊賀越え」とは、「本能寺の変」にて「織田信長」が自刃したことを聞いた「徳川家康」が、上洛途中の河内国(現在の大阪府東部)よりわずかな手勢を連れて伊賀国(現在の三重県伊賀地方)へ入り、次々と襲いかかる一揆勢を切り抜けて領地である三河国(現在の愛知県東部)岡崎城を目指した苦難の旅を指します。三河一向一揆、三方ヶ原の戦いと並ぶ「徳川家康の三大危機」のひとつである伊賀越え。その一連のあらましをご紹介しましょう。

1600年(慶長5年)9月15日、美濃国不破郡関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)を舞台として、日本史上最も有名な合戦のひとつ「関ヶ原の戦い」が起こりました。全国の諸大名が「徳川家康」が率いる東軍と、「石田三成」を中心とする西軍に分かれての戦いは、まさに「天下分け目の戦い」の名にふさわしい一大決戦です。この戦いに勝利した徳川家康は、そのあと江戸幕府を開き、天下泰平の世を実現します。ではなぜ徳川家康は関ヶ原の戦いに勝つことができたのでしょうか。合戦までの経緯と、徳川家康の先見性に優れた戦略について見ていきます。関ヶ原の戦い YouTube動画関ヶ原の戦い関ヶ原の戦い~その後~

刀工一派の「村正」(むらまさ)が鍛えた日本刀は、徳川家康と徳川家に仇をなす「妖刀」と呼ばれることがあります。さらには妖刀村正自体が意志を持っているかのように持ち主やまわりの人々に災いをもたらすとまで言われました。しかし現代においては、「妖刀村正伝説」は後世の創作であることが分かっています。また徳川家康も村正の名刀を所持し、のちに後代へと継承しているのです。では、なぜ妖刀村正伝説は生まれたのでしょうか。またその伝説の真相とは?徳川家康と徳川家にかかわる村正の日本刀について探っていきましょう。

「桑名宗社」(くわなそうしゃ)は、三重県桑名市本町の総鎮守社(土地全体を守る神社)で、「春日神社」(はるひじんじゃ)または「春日さん」とも呼ばれています。「桑名神社」(三崎大明神)と「中臣神社」(なかとみじんじゃ:春日大明神)の両社からなり、「徳川家康」からも篤く(あつく)崇敬されて1601年(慶長6年)には徳川幕府から神領100石が「春日領」として寄進されました。また、徳川家康の肖像画や「葵紋」が施された貴重な品々が納められている他、徳川家康とは因縁があるとされた「村正」(むらまさ)の太刀も所蔵されています。毎年8月に行われる「石取祭」(いしとりまつり/いしどりまつり)は、ユネスコの無形文化遺産に登録されている祭りのひとつです。

徳川家康と城
徳川家康の生涯と、ゆかりのある城について紹介します。
戦国武将
日本の歴史に登場する戦国武将をイラスト付きでご紹介します。
武将・歴史人の日本刀
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「ホテル多度温泉」内にある「刀剣ワールド桑名・多度 別館」では、刀剣をはじめ、甲冑、薙刀、拵、陣笠、鐙・鞍などの美術品を数多く展示しています。入館料は無料です。ほかでは見ることのできない歴史的・美術的にも価値の高い品々を心ゆくまでご覧いただけます。
「徳川家康と三重県・岐阜県」のページでは、戦国の世に終止符を打ち、泰平の世を開いた徳川家康が三重県・岐阜県でどのような活躍を見せたかをご紹介。また、徳川家にかかわりのある名刀「村正」、徳川家康が寄進した「桑名宗社」(春日神社)についても詳しくまとめました。
刀剣・薙刀・甲冑につきましては、様々な角度から撮影した写真と共に、詳細情報も掲載。
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