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長島一向一揆/古戦場
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戦国時代に勃発した戦乱は、武将同士の戦いだけにとどまりませんでした。とりわけ各地で行われた一揆の制圧に苦心した武将も多く、「織田信長」もそのひとりです。「長島一向一揆」は、そんな織田信長が制圧にあたった非常に規模の大きい一揆になります。一揆軍側と織田信長軍側の双方で多くの死傷者を出したこの一揆は、3度にわたって行われました。そんな長島一向一揆の概要、及び古戦場について解説します。

長島一向一揆の概要

願証寺

願証寺

長島一向一揆は尾張国(現在の愛知県西部)と伊勢国(現在の三重県北中部)にまたがる伊勢長島と呼ばれる地域で勃発した一揆。

この一揆では3度にわたって大規模な争乱が起こっており、これらは「第一次長島攻め」「第二次長島攻め」「第三次長島攻め」と呼ばれています。これらの争乱の詳細だけでなく、背景や結末についても見ていきましょう。

一揆が勃発した背景

長島一向一揆は、すでに尾張国を統一していた織田信長と伊勢長島に拠点を置いていた浄土真宗本願寺派の争い。もともと浄土真宗本願寺派は1501年(文亀元年)にこの地域で「願証寺」(がんしょうじ:三重県桑名市)を創建し、その影響力を強めていました。

当初、織田信長は浄土真宗本願寺派と争う姿勢を見せてはいませんでしたが、1570年(元亀元年)、浄土真宗本願寺派の「顕如」(けんにょ)が門徒に織田信長への蜂起を呼びかけると状況は一変。織田信長も警戒心を強くします。浄土真宗本願寺派はさらに小豪族なども仲間に付け、1571年(元亀2年)に本格的な一向一揆を起こしました。

第一次長島攻め

勃発した一揆への対応を余儀なくされた織田信長は、第一次長島攻めを開始。織田軍は50,000を超える兵を従え、「津島」・「中筋口」・「太田口」の3ヵ所から攻撃を仕掛けます。しかし、本願寺軍はすでに守備力を強化するための砦を十数ヵ所も建造。織田軍はその攻略に苦戦したのです。また、本願寺軍は土地勘があるという強みを活かして織田軍を奇襲。結果的に織田軍は敗走を強いられることとなりました。

第二次長島攻め

2年後の1573年(天正元年)に織田信長は第二次長島攻めを決行します。前回の失敗を踏まえ、織田信長は本城の「長島城」(三重県桑名市)ではなく、周囲の城から攻略するという戦法で本願寺軍を攻め立て、いくつかの城を攻略。

また、略奪前に降伏する城もあり、徐々に織田軍優勢の状況に転じていきました。一方で第二次長島攻めでも織田軍は本願寺軍の奇襲に手を焼き、多くの犠牲を出してしまいます。そのこともあり、結果的に長島城の攻略には至らず、第二次長島攻めも失敗に終わったのです。

第三次長島攻め

翌年の1574年(天正2年)に織田信長は第三次長島攻めを決行。前年に「武田信玄」が亡くなっていたこともあり、精神的にも長島攻めに集中しやすい状況になっていた織田信長は80,000もの兵を従え、本願寺軍を攻め立てました。最終的に織田軍は、3つの砦に立てこもった本願寺派の門徒達を兵糧攻めで降伏させます。

この降伏時には戦意を喪失した門徒達を織田軍が容赦なく殺傷したという記録が残存。このことからも、織田信長が守りの堅い本願寺派にフラストレーションをためていたことがうかがい知れます。

鎮圧とその後

織田軍は結果的に20,000にも及ぶ本願寺派の門徒を殺傷。長島一向一揆については、これで鎮圧となりましたが、両者のあいだには因縁が残ることとなります。このことから織田軍と本願寺軍のあいだでは、これ以降も「越前一向一揆」・「天王寺砦の戦い」・「石山合戦」といった戦いが繰り広げられることとなったのです。

また長島一向一揆に関しては、「織田信広」(おだのぶひろ)・「織田秀成」(おだひでなり)・「織田信次」(おだのぶつぐ)といった織田家一門にも多くの犠牲が出ました。そのため、織田信長にとっても後味の悪いものになったと考えることができます。

長島一向一揆古戦場

長島一向一揆は3度にわたって行われ、なおかつ戦闘が繰り広げられた範囲は広大。そのこともあり、特定の場所だけが古戦場として保存されているということはありません。このことを踏まえた上で、長島一向一揆との関連性が強い場所をご紹介します。

長島城跡

長島城跡

長島城跡

長島一向一揆古戦場のひとつとして挙げられるのが長島城跡。長島城は長島一向一揆において織田信長が鎮圧の最終的な目標とした本城であり、本願寺軍からすれば重要な拠点のひとつでもありました。

そんな激闘が繰り広げられた長島城は、三重県桑名市の長良川からほど近い場所にあったことが分かっていますが、その面影は残っていません。敷地内には小学校と中学校が建設されています。

蓮生寺

厳密に言うと長島一向一揆古戦場ではありませんが、「蓮生寺」(三重県桑名市)には長島城の大手門が移築。桑名市指定文化財に指定されたこの門は、数少ない長島城の遺構のひとつであり、歴史的価値も十分です。

長島一向一揆殉教之碑

長島一向一揆では願証寺が本願寺軍の重要な拠点となりました。長島城が陥落した際には寺主の「顕忍」やその家族が自害したという伝承も残っており、長島一向一揆とのかかわりは極めて深いと言えます。そんな願証寺には「長島一向一揆殉教之碑」が建立。一揆で命を落とした人達が追悼されています。

古木江城跡

長島一向一揆では織田軍の侵攻を食い止めるために、本願寺軍は数多くの砦や城を利用。「古木江城」(現在の愛知県愛西市)もまた、長島一向一揆における戦闘の舞台となった城のひとつであり、こちらには織田信長の弟である「織田信興」(おだのぶおき)が派遣されたと言われています。

この古木江城があった場所にもこれといった遺構は残されておらず、敷地内には「富岡神社」(愛知県愛西市)などが現存。しかし古木江城は織田信興が討たれた場所でもあることから、こちらも重要な古戦場のひとつと言うことが可能です。

まとめ

長島一向一揆においては蜂起した本願寺軍に苦戦した織田信長でしたが、最終的には多くの兵を動員することでその鎮圧に成功。3度にわたって侵攻したという事実には、織田信長自身の執念深い性格がうかがい知れます。

そんな長島一向一揆にはこれといった古戦場や関連する城の遺構がほとんど残されていません。直接的な関係があるのは蓮生寺の大手門や願証寺の長島一向一揆殉教之碑だけであることから、短時間で見て回ることも可能です。

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