三重県・岐阜県の城下町

岐阜県高山市の城下町
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「高山城」(岐阜県高山市)は、「金森長近」(かなもりながちか)が16年かけて築城した城です。高山城は「豊臣秀吉」から築城技術が高く評価された名城でした。しかし、完成から90年余りで廃城となり、現在はわずかに残された石垣しか見ることができません。一方、金森長近が築城と同時に整備した城下町は、現在もほぼ完全と言える状態で残されており、多くの見どころが存在。高山城と城下町の概要と歴史、現在の状況、見どころについて詳しくご紹介します。

高山城の概要

高山城跡

高山城跡

現在の高山城にあたる場所には、飛騨国(ひだのくに:現在の岐阜県北部)の守護代(しゅごだい:室町時代の地方行政官の代行職)であった多賀氏(たがし)が、1444~1449年(文安元年~6年)にかけて築城した山城が存在。

「多賀天神」(たがてんじん)を祀っていたことから、「多賀山城」(たがやまじょう)と呼ばれていました。

16年かけて築城された名城

1585年(天正13年)に、豊臣秀吉の命を受けた金森長近が飛騨国へ攻め入って平定。その功績として、金森長近は飛騨国3万8,700石を豊臣秀吉から与えられました。1588年(天正16年)に、金森長近は多賀山城跡に築城を開始。

1603年(慶長8年)まで16年かけて高山城を完成させたとされています。城郭初期の形態に位置付けられる高山城は、戦の機能を優先させた城とは異なり、居住を重視した御殿風の形式で外観2層、内部3階の構造を持つ天守を備えていたのが特徴。

地誌「飛騨国中案内」では「城郭の構え、およそ日本国中に5つともこれ無き見事なるよき城地」と絶賛されるほどの名城でした。金森長近はこの築城で普請技術(ふしんぎじゅつ:公共工事)を豊臣秀吉に高評価され、他城の築城にもかかわっています。

突然の移封と高山城の廃城

1692年(元禄5年)に、6代目城主「金森頼旹」(かなもりよりとき)が、江戸幕府の命により出羽国(でわのくに:現在の山形県、秋田県)に移封(いほう:領地替え)。江戸幕府直轄領となった高山城は、金沢藩(現在の石川県金沢市)が管理して城番(じょうばん:城の守衛にあたった兵士、城代を補佐した役職)を置くようになりました。

しかし、そのわずか3年後の1695年(元禄8年)には、江戸幕府の命によって石垣などを含めた高山城のほぼすべてが破却され、廃城となってしまったのです。そのあと、城跡は町民の憩いの場として花見などに使用。1919年(大正8年)には高山城跡が内務省の史跡指定を受け、現在は岐阜県の史跡に指定されています。

高山市 高山城下町の歴史

復元された高山城石垣

復元された高山城石垣

高山城が辿った歴史と城下町の歴史は、対照的です。

金森長近は、16年かけて高山城を築城すると共に城下町を発展させていきました。

高山城下町は江戸時代初期に繁栄し、江戸幕府直轄領となったあとも壊されることなく、ほぼそのままの姿で現在まで残っています。

川に挟まれた城下町

高山城下町が造られたのは、高山城の北方向に延びる通称「空町」(そらまち)と呼ばれる高台と、その西方向きの低地一帯。西側を南から北へ流れる宮川と、東側を南から北、さらに途中で西側へと曲がりくねって流れる江名子川(えなこがわ)に囲まれた地域です。城郭を造っていくと共に武家屋敷の地割がなされ、飛騨国の各地から寺院、町人屋敷が移されていきました。

武家屋敷と町人屋敷を明確に区分

高山城下町の武家屋敷は、高山城の大手筋にあたる宮川の右岸へ階段状に配置。空町一帯から江名子川沿いに、高山城の西、北、東の三方を取巻く形で置かれました。

これに対し、町人屋敷は、宮川と空町の間の低地に一番町、二番町、三番町と南北に道路を走らせて配置。武家屋敷の東西の道は、町人屋敷の南北に走る大通りと、食い違いに交差する横丁が多く配置されていました。

寺院が多い城下町

高山城下町の東にある、東山の麓(ふもと)が社寺地に当てられ、1586年(天正14年)の「大雄寺」(だいおうじ:岐阜県高山市愛宕町)を皮切りに、次々と寺院が建立。また、高山城の東南には、金森家に所縁のある「大隆寺」(だいりゅうじ:岐阜県高山市春日町)が移築されました。

また、これらの寺院群とは別に、高山城と向かい合った場所に「照蓮寺」(しょうれんじ:岐阜県高山市堀端町)を配置します。さらに、寺院の周囲には、寺内町(じないちょう/じないまち:仏教寺院を中心に形成された自治集落)も形成されていきました。

高山市 高山城下町の現在

高山市の城下町は、城下町として栄えていた江戸時代の景観が、ほぼそのままの姿で残されている見どころの多い地域。文化財を巡る散策に出かければ、よりその魅力が分かります。

高山陣屋

高山陣屋

高山陣屋

高山陣屋」(岐阜県高山市八軒町)は、高山藩主の金森氏が所有していた屋敷。飛騨国が江戸幕府の直轄地となってからは、江戸幕府が派遣した代官(だいかん:直轄領を支配する地方行政官)が住むための代官所として活用されました。

重々しい外観に、江戸時代の姿を忠実に復元した格調高く美しい屋内、風情ある庭が特徴。

江戸時代の陣屋は他にほとんど残っておらず、日本で現存している唯一の陣屋として、高山陣屋は国の史跡に指定されました。

藤井民芸美術館と上三之町

「藤井民芸美術館」(岐阜県高山市上三之町)は、破却された高山城二の丸の登城門を模した、風情ある門構えを持つ施設。安土桃山時代から伝わる古美術品などが多数展示されており、展示のなかには270年以上も前の「一休禅師」(いっきゅうぜんじ)の掛け軸もあるほど。

貴重な展示を堪能することができる美術館となっています。また、高山陣屋から藤井民芸美術館へ移動する間は、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている「上三之町」(かみさんのまち)を楽しむのがおすすめ。

出格子(でごうし:表に突き出した形式の格子)が連なる店々の大戸、軒下の用水路、杉の葉を玉にした「酒ばやし」などが並び、往時の古い町並みが感じられる風景です。郷土料理が味わえる飲食店、味噌屋、伝統的工芸品店、民芸品店なども多いので、お土産探しにも適しています。

歴史ある寺院群

金森長近が城下町を整備する際、東の小高い丘陵地に寺社を移築。上三之町の東側にある東山寺町には、現在も寺院群が立ち並んでおり、高山ゆかりの人物の墓を見ることが可能。特に「加藤清正」(かとうきよまさ)の孫である「加藤光正」(かとうみつまさ)の墓が有名です。

寺院群、文化財は東山遊歩道で結ばれ、宮川にかかる中橋から「飛騨民俗村 飛騨の里」(岐阜県高山市上岡本町)までは、徒歩30分程度の距離。また、東山遊歩道は紅葉の名所でもあり、紅葉の季節にはライトアップされるので、夜は幻想的な風景を楽しめます。

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