三重県・岐阜県の城下町

三重県伊賀市の城下町
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三重県伊賀市は、地理的に京都の近くにあるにもかかわらず、山深い神秘的な地域であったため、中央政府の手が届きにくい自治国として発展します。のちに、大きな戦場となりましたが、江戸時代以降は比較的平穏であったため、城下町に残されている歴史的な建物が少なくありません。そんな伊賀市には、築城の名手である「藤堂高虎」(とうどうたかとら)が建てた「伊賀上野城」(三重県伊賀市)があります。伊賀上野城の歴史、成り立ち、城下町の様子と現在の見どころについてご紹介します。

伊賀上野城の概要

伊賀上野城の築城

伊賀上野城

伊賀上野城

伊賀上野城が建てられたのは、「平楽寺」(へいらくじ)、「薬師寺」(やくしじ)という大寺院の跡地です。

この2つの寺院は1578年(天正6年)の「天正伊賀の乱」(てんしょういがのらん)の際、伊賀勢の拠点とされており、伊賀勢が「織田信長」に敗北した1581年(天正9年)に全焼してしまいました。

「豊臣秀吉」の時代を迎えると、豊臣秀吉の家臣「筒井定次」(つついさだつぐ)が、1585年(天正13年)に、平楽寺と薬師寺があった標高184mの台地を利用して近世城郭を持つ伊賀上野城を築き、丘の頂上を本丸として東寄りに3層の天守閣を造りました。

なお、伊賀上野城は豊臣氏の大坂(現在の大阪府大阪市)を守るために建てられたと言われています。

伊賀上野城攻め

1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」において、筒井定次は「徳川家康」側に付き、会津征伐へ赴きました。筒井定次が伊賀上野城を空けると、敵方である「石田三成」(いしだみつなり)に従う、「新庄直頼」(しんじょうなおより)と「新庄直定」(しんじょうなおさだ)親子が、伊賀上野城を攻撃。すると、城の留守を預かっていた筒井定次の兄「筒井玄蕃」(つついげんば)は、「高野山金剛峯寺」(こうやさんこんごうぶじ:和歌山県伊都郡)へ逃亡してしまいました。

これを伝え聞いた筒井定次は慌てて伊賀国へ戻り、地元の民を含む大軍で伊賀上野城を取り戻します。そのあとも筒井定次は伊賀上野城主を務めますが、1608年(慶長13年)に失政を理由として領地を没収され、1615年(元和元年)には反逆罪で切腹を命じられました。

大坂へ対抗するための城へ変貌

徳川家康は大坂の「豊臣秀頼」と戦うため、伊賀上野城を守りの拠点にしようと考え、1608年(慶長13年)に築城の名手である藤堂高虎を「今治城」(いまばりじょう:愛媛県今治市)から伊賀上野城へと移封(いほう:領地替え)します。

藤堂高虎は、1611年(慶長16年)から伊賀上野城の改築を開始し、西にある空き地を利用して深い溝を掘って高い石垣を積み、西側の守りを固めました。

1612年(慶長17年)には天守閣を築きましたが、建設中に発生した大嵐で倒壊。天守閣の再建も検討されるものの、「大坂の夏の陣」で徳川家康が勝利したのち、江戸幕府が新たな城造りを禁じたため実現されませんでした。

版籍奉還で廃城処分に

明治維新後の「廃城令」により、伊賀上野城は廃城処分とされ、取り壊されます。現在の伊賀上野城は藤堂高虎が築いた城跡を1935年(昭和10年)に衆議院議員「川崎克」(かわさきかつ)が私財を投じて復興した建造物。美しい白亜の天守閣を持つ伊賀上野城は、別名「白鳳城」(はくほうじょう)とも呼ばれます。

伊賀市 伊賀上野城下町の歴史

伊賀上野城下町の歴史

伊賀上野城下町は、1578年(天正6年)から勃発した天正伊賀の乱で破壊されたため、それ以前の建物はあまり多くはありません。

天正伊賀の乱とは、織田信長と伊賀勢との間に起こった2度にわたる戦い。鎌倉時代末期の「伊賀国」(いがのくに:現在の三重県西部)は荘園が多く、中央から任命された守護(地方行政官)と地頭(荘園の管理職)がいました。

守護と地頭の力が弱まると、他国から伊賀国が侵略されるようになり、伊賀国の地侍(じざむらい:半農の武士層)達は、侵略者に対抗すべく「伊賀惣国一揆」(いがそうこくいっき)という集団を形成。伊賀国も自治が進みます。戦国時代に入ると、伊賀国を手に入れたいと考えた織田信長とその次男「織田信雄」(おだのぶかつ)が、伊賀惣国一揆を攻撃しました。

そして2度にわたる戦いを制した織田信長は、伊賀国を焼き払ったのです。そのあと、筒井定次が1585年(天正13年)に伊賀上野城と城下町を建設しますが、藤堂高虎が入城する前年の1607年(慶長12年)に、大火事により城下町が焼失したとされます。

小京都と称される伊賀上野城下町

現在の伊賀上野城下町は、藤堂高虎が伊賀上野城を改築したのち、古くから開けていた城の北側(現在の三重県伊賀市小田町)を中心として再整備した都市。碁盤状に区画整理され、当時から小京都に数えられる美しい街並みと称えられました。

城下町を守るために7つの寺院が配置されているのも特徴。茶の湯に通じていた藤堂高虎の影響もあり、城下町には古くからの和菓子店が今でも軒を連ねています。

明治~昭和時代を生き残った城下町

幕末の「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)の際、伊賀上野城がある「津藩」(現在の三重県津市)は明治政府軍の一員として東へ向かったため、伊賀上野城下町が戦いに巻き込まれることはありませんでした。のちの「第2次世界大戦」でも米軍の空襲被害を受けていません。そのため、1821年(文政4年)に建てられた藩校、明治時代に建てられた小学校などが現存しています。

伊賀市 伊賀上野城下町の現在

寺町通り

寺町通り

寺町通り

「寺町通り」には、城下町を守る目的で7つの寺院が配置。寺町通りは両脇を白壁に三角瓦を持つ寺院の塀が続いており、静寂な中に歴史の面影を感じられます。

寺町通りのなかでも特に藤堂家との関連がある寺は、「上行寺」(じょうぎょうじ:三重県伊賀市上野寺町)、「大超寺」(だいちょうじ:三重県伊賀市上野寺町)の2つ。

上行寺は、藤堂家の菩提寺であり、歴代津藩主の墓碑が立ち並びます。大超寺は、藤堂家の分家である藤堂玄蕃家(とうどうげんばけ)の菩提寺として建立されました。

旧崇広堂

「旧崇広堂」(きゅうすうこうどう:三重県伊賀市上野丸之内)は、1821年(文政4年)に津藩10代藩主「藤堂高兌」(とうどうたかさわ)が建てた藩校「有造館」(ゆうぞうかん)の支校。1854年(嘉永7年)に、「伊賀上野地震」により半壊してしまいましたが、その後復興されました。

現存しているのは講堂部分で当時のまま見ることができます。明治時代以降は公共施設として活用され、1983年(昭和58年)まで「上野市立図書館」として使用されました。

現在は、当時の資料を閲覧する展示館を併設。また、旧崇広堂は市民の文化啓発活動の場としても解放されており、ひな祭り、ライトアップ、ステンドグラス展など様々なイベントなどを開催しています。

赤井家住宅・入交家住宅

「赤井家住宅」(あかいけじゅうたく:三重県伊賀市上野忍町)、「入交家住宅」(いりまじりけじゅうたく:三重県伊賀市上野相生町)は伊賀上野城下町の武家屋敷。いずれも見学できるように開放されており、伊賀市のイベントの際には、展示会場にもなります。

赤井家住宅は、丹波国(たんばのくに:現在の兵庫県北東部)の赤井氏を伊賀上野城へ召し抱えるにあたって建築された住宅。母屋は明治時代に建替えられましたが、長屋門(長屋の一部に扉を付けて造った門)は、江戸時代に建てられたまま現存しています。

その希少性から、赤井家住宅は、国指定有形登録文化財に指定。庭園内は自由に観覧できます。入交家住宅も1789~1800年(寛政元年~12年)の間に、「入交勘平」(いりまじりかんぺい)が拝領しました。現在、入交家住宅は三重県指定有形文化財に指定されています。

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