三重県亀山市にあった「亀山城」は、天守は現存しませんが江戸時代の建造物の史跡などが残されており、歴史的な雰囲気を味わうことができるスポットです。亀山城を築城した人物や改築を重ねた歴史、見どころについて詳しくご紹介します。
亀山城には、城に関連した和歌も残されていました。幕末の伊勢亀山藩(現在の三重県)の家老「近藤幸殖」(こんどうさきたね)は、「豊臣の きみの掛けにし 墨縄や たくみ妙なる 亀山の城」という歌を詠んでいます。これは豊臣秀吉が、岡本良勝に命じた築城を豊臣秀吉自らが設計したとされる伝承を歌ったものです。
亀山城は京都にも同名の城があり、これを区別する際には本コンテンツの亀山城を「伊勢亀山城」として、もう一方を「丹波亀山城」(京都府亀岡市)と呼びます。なお、同じ名前であることを理由に、丹波亀山城一帯は1869年(明治2年)に「亀岡」へと名称変更されました。
同じ亀山という名であることから起きた勘違いの逸話が2つあります。ひとつは幕府からの褒賞です。江戸幕府の将軍が参詣するため「日光東照宮」(現在の栃木県日光市)へ向かう際、丹波亀山藩(現在の京都府)に警護を依頼したときのこと。これが大変に良い働きだったとして、江戸幕府は褒美を渡すことにしたのですが、警護をした丹波亀山藩ではなく、間違えて伊勢亀山藩に届けられてしまったのです。その後、届け直されたとは言え、同名というのは当時からすでにややこしい問題を引き起こしていました。
さらに、もうひとつの逸話はより大変な事態に発展してしまった事件です。それは1632年(寛永9年)、江戸幕府が丹波亀山城の天守を解体し再建築する、と大名「堀尾忠晴」(ほりおただはる)に伝えたのですが、なんと誤って伊勢亀山城の天守を解体してしまったのです。勘違いによる天守解体については「九々五集」(くくごしゅう)と言う書物に記録が残っているのみ。そのため、本当に亀山城違いをしたのかどうかは定かではありませんが、以降、伊勢亀山城は天守がないお城であったことは確かです。
亀山城には、城そのものは現存しませんが、歴史を感じられるスポットがいくつか残っています。
三重県の亀山城を観光するにあたって、見ておきたいスポットとして挙げられるのは、多門櫓。廃城令によりほとんどの建造物を取り壊された亀山城ですが、多門櫓のみ当時の姿を伝えています。
多門櫓 外観
多門櫓は1644~1648年(正保元年~5年)の間に、当時の城主「本多俊次」(ほんだとしつぐ)が建築した平屋建ての櫓(やぐら)です。平時は武器を保管しておく場所として利用されていました。
明治時代は工場として使われていたため取り壊しを免れ、1953年(昭和28年)5月7日に「旧亀山城多門楼」(きゅうかめやまじょうたもんろう)として三重県史跡に指定されています。
2007年(平成19年)4月15日に発生した三重県中部地震により石垣の一部が崩落。そのあと、2011年8月~2012年4月(平成23~24年)まで行われた「平成の大修理」により無事再建しています。
「三重櫓跡」は、1641年(寛永18年)に作られた、3層作りの城内では最も大きな櫓でした。櫓自体はすでにないのですが、そこに登るための石階段は今も残ります。現在の三重櫓跡は「ますみ児童公園」となっており、遊具や展示用SL車が設置され地域の憩いの場となっています。
戦国時代の気分に浸りたいという方は、「二の丸帯曲輪」(にのまるおびくるわ)も見ておきたいスポットのひとつ。曲輪とは城内を整理するための区画の名称ですが、防御力を高めるために細長く帯状に造られた場所を帯曲輪と呼びます。亀山市は、江戸時代当時の二の丸帯曲輪の復元工事を行い、2006年(平成18年)に完成させました。
加藤家長屋門
亀山城西の丸には、「加藤家長屋門」があります。江戸時代当時、亀山城主だった石川氏に仕えていたのが加藤氏。その加藤氏が住んでいた場所が加藤家長屋門です。
明治時代以降、建物は移築され、現在は屋敷の表門である長屋門と、門に連なる土蔵などが現存。
土蔵の壁面には平瓦を並べて貼る「なまこ壁」になっており、武家屋敷の堂々とした風格を今に伝えます。
関実忠によって前身の城が築かれ、岡本良勝により大きく改築されて以降、三重県亀山地域を数百年にわたり見守ってきた亀山城。日本の多くの城と同様に、亀山城は廃城令にてその役目を終えました。唯一残された多門櫓は、改修を加えながら戦国時代当時の姿を今に伝えます。その他、江戸時代の曲輪を復元した二の丸帯曲輪や、加藤家長屋門は歴史の面影を感じることのできるスポットです。