「童子切安綱」(どうじぎりやすつな)は、平安時代中期の刀工「安綱」(やすつな)によって鍛えられた太刀(たち)です。鬼退治や狐憑きを治すなど、多くの逸話を持つ童子切安綱は、足利将軍家から豊臣家、徳川家のもとを渡り歩いた来歴を持つ刀剣。「天下五剣・童子切安綱の解説」では、「天下五剣」(てんがごけん)のなかでも最高峰とされる、童子切安綱の歴史と刀身の解説を行っています。
北野天満宮
童子切安綱を作刀した安綱は、伯耆国(現在の鳥取県)で活動した刀工で、当地における作刀の始祖。また国名を冠して「伯耆安綱」(ほうきやすつな)とも呼ばれ、童子切安綱のほか、「北野天満宮」(京都市上京区)所蔵の「髭切」(ひげきり:別名・鬼切丸[おにきりまる])が代表作として知られています。
安綱の住んだ伯耆国は、古来、良質な山砂鉄に恵まれた土地であり、鉄具の生産が盛んに行われました。刀剣作りに最適な土地で作刀に励んだ安綱の遺作は20振ほどで、そのほとんどに「安綱」の「二字銘」(にじめい)が切られ、どれも貴重な作品になります。これらの日本刀は、国宝が1振、重要文化財には4振も指定され、安綱は名工として揺るぎない評価を受けているのです。
童子切安綱を名刀とするのは、やはり「童子切」と「号」(ごう)された由来となった「酒呑童子」(しゅてんどうじ)を討伐した逸話でしょう。
平安時代中期、京都では酒呑童子という名の鬼が、手下の鬼達と貴族の姫を攫う(さらう)事件を起こしていました。時の権力者だった「藤原道長」(ふじわらのみちなが)より酒呑童子討伐の命を受けたのが、藤原道長に仕えた武官「源頼光」(みなもとのよりみつ)です。
源頼光
源頼光は、酒呑童子の住み処に家臣達と忍び込み、人が飲めば薬に、鬼が飲めば毒となる「神変鬼毒酒」(じんぺんきどくしゅ)を鬼達に振る舞いました。神変鬼毒酒を飲んだ酒呑童子と手下の鬼達は身動きができなくなってしまいます。この隙に源頼光とその家臣達は、腰に佩いていた刀で酒呑童子と鬼達にとどめを刺していきました。このとき源頼光が用いたのが安綱の太刀だったことから、「童子切」と名付けられたのです。
東京国立博物館
越前松平家は1945年(昭和20年)頃、童子切安綱を手放しました。しばらくして愛刀家の「渡辺三郎」(わたなべさぶろう)氏が童子切安綱を所持。しかし、「村山寛二」(むらやまかんじ)氏から借金の担保に預かっただけで、本来の持ち主とは言えませんでした。さらに厄介なことに、童子切安綱を預かった直後に渡辺三郎氏は亡くなります。
そのあと、童子切安綱の所有権を巡り村山寛二氏と、渡辺三郎氏の遺族間で争奪戦が起こり、裁判にまで発展。裁判は最高裁まで進むほど混迷を極めましたが、文化庁の前身「文化財保護委員会」が介入し、村山寛二氏と渡辺三郎氏の遺族に2,600万円を支払い童子切安綱を買い上げたのです。
こうして、童子切安綱は文化財保護委員会により「東京国立博物館」(東京都台東区)に移管。1951年(昭和26年)に国宝に指定され、童子切安綱が展示されれば多くの刀剣ファンが鑑賞に訪れるほど高い人気を誇ります。
童子切安綱は、刀剣の中程よりも手元に反りの中心を持つ、腰反り高く踏ん張りつく優美な姿が特徴。けれども元幅と先幅の差が0.9cmと比較的少ないことから、繊細さよりも力強い印象を抱く刀身でもあります。
そして、名刀目録「享保名物帳」(きょうほうめいぶつちょう)には「極上々之出来」と絶賛される完成度。斬れ味もすさまじいとされ、江戸時代に試し斬りをした際、六ツ胴(6体の死体を重ね斬りしたこと)の上、その土台まで斬ったと伝わっています。昭和時代以降は、日本刀における「東西の両横綱」に例えられ「東の童子切安綱、西の[大包平](おおかねひら)」と称えられているのです。そんな童子切安綱が「天下五剣の筆頭」に位置付けられるのは、鬼退治の逸話や斬れ味の良さなどを含めた、格調の高さを評価されてのことなのでしょう。
鎬造り
鎬造りとは、平安時代中期頃に完成した形状で、刀身の表裏に鎬を持つ刀剣を指します。現存する多くの日本刀がこの形状のため別名「本造り」(ほんづくり)とも。
また鎬に厚みがあることを「鎬が高い」、薄い場合は「鎬が低い」と表現し、一般的に「大和伝」(やまとでん)の刀剣は鎬が高く、「相州伝」(そうしゅうでん)や「備前伝」(びぜんでん)の刀剣は鎬が低いとされています。
鎬造り
切先両刃造
刀の棟
庵棟とは、「棟」(むね:刃と反対側の背部)の形状を指し、屋根のように棟部分が鋭角になっている造りのこと。
刀剣のなかでも最も多い形状であり、別名「行の棟」(ぎょうのむね)とも言います。
棟の種類
地鉄
地鉄とは、日本刀に浮かぶ鍛え肌の模様を指し、別名「地肌」(じはだ)とも言う箇所。日本刀の材料、「玉鋼」(たまはがね)を「折り返し鍛錬」(おりかえしたんれん)することにより、地鉄の模様が生まれます。
基本の種類は「板目肌」(いためはだ)、「柾目肌」(まさめはだ)、「杢目肌」(もくめはだ)の3種類。ただ1種類のみが刀身に現れることはなく「板目に柾が交じる」、と言うようにそれぞれが交ざり合って現れます。
小板目肌
小板目肌とは、板目肌の一種で、地鉄の表面が木材の板目に似た模様になります。「肌立つ」は模様が浮き出るようにはっきり見える状態。さらに「ごころ」は、「~な感じ」・「~に近い」の意味になるので、この場合は「小板目が肌立っているような感じ」となり、絶妙な見え方を表現するときに用います。
そして地沸とは、刃文を構成する粒の大きな鉄の微粒子「沸」(にえ)のこと。刃文のなか「刃中」(はちゅう)に現れた場合は沸ですが、地鉄のなか「地中」(ちちゅう)のときは地沸と言います。地沸を作るには、まず刀身を高温で焼き入れし急冷。すると鉄の組織が変化し、砂を散らしたように輝く模様が刀身表面に現れるのです。
続いて地斑とは、地鉄に斑(まだら)状に現れる地沸の一種。そして、地景は炭素量の違う鋼が地鉄に現れることを言い、肌目を横切るように模様が網状に入る物が最上とされます。
最後の映りは、地鉄に現れる白く浮き上がるような模様。焼き入れ時の熱処理によって映りは生じ、まるで地鉄に刃文がもうひとつ映っているように見えます。また映りのほとんどは備前物に多く見られるものの、「古刀」(ことう)の場合は童子切安綱の「古伯耆」(こほうき)や、「古青江」(こあおえ)、「三条派」(さんじょうは)でも映りを見ることが可能です。
地沸
地斑
地景
映り
刃文とは刀身に現れる模様のことで、日本刀を作る最後の工程となる焼き入れによって付けられた焼刃の形状です。刀身の刃先にある白っぽい部分を白熱電球などの光線にかざすと、刃文が浮かび上がります。
刃文
そして刃文は直線的な「直刃」(すぐは)の「細直刃」(ほそすぐは)、「中直刃」(ちゅうすぐは)、「広直刃」(ひろすぐは)の3種類。
さらに波打った「乱刃」(みだれば)の、「丁子」(ちょうじ)、「互の目」(ぐのめ)、湾れの3種類になります。全部で6種類ある刃文を基本として、多彩な模様が刀剣に作り出されるのです。
小乱れは互の目や丁子を交えた、小さく複雑な模様のことで、それが波のようにうねる浅い湾れとなっている状態。そして、その部分に小沸という白い小粒の沸が付きます。刀身に一種類の刃文だけが現れることは稀で、童子切安綱のように数種類の刃文を保つ場合がほとんど。こうした小乱れは、童子切安綱などの古伯耆をはじめ、「古備前派」(こびぜんは)、三条派などの古刀の刀剣によく見られる刃文です。なお、童子切安綱には1657年(明暦3年)に起きた「明暦の大火」で焼けたとする説がありますが、刃文に焼き直しの痕跡がないことなどから、焼けた説は憶測に過ぎないとされています。
続いて刃中とは、刃文のなかに現れる模様になります。金筋は地景と同様に、炭素量の違う鋼が地鉄ではなく刃文に出現することであり、鍛え肌に沿って黒っぽく光る線状の働きです。次に砂流しは刃中に沸が絡んだ状態で、白く複数の線状が連なる状態。この砂流しの名称は、箒で砂を掃いた様子や、打ち寄せた波がさらった砂浜の模様に似ていたことから呼ばれるようになりました。
金筋
砂流し