絵画や彫刻、工芸など、長い年月を経て継承された文化財(美術品)は、美しいがゆえに経年劣化という問題がついてまわります。優れた芸術作品を本来の姿のまま多くの人が享受するには、正しい方法で保存・管理することが必要なのです。「刀剣ワールド財団」では、文化財(美術品)の保存や修復といった日本の伝統文化を通じてさらなる普及と発展への貢献を目指した「CSR」(Corporate social responsibility:企業の社会的責任)活動を積極的に行なっています。
江戸時代、身分の高い花嫁が「婚礼」の際に乗ったと言われる、「女乗物」(おんなのりもの)。数が少ない、重要な史料価値を持つ文化財(美術品)です。
今回は、弊社所蔵「黒漆塗葵紋津山散蒔絵女乗物」(くろうるしぬりあおいもんつやまちらしまきえおんなのりもの)の修復を行ないました。貴重な修復作業の様子を解説と写真でご紹介します。
「女乗物」とは、江戸時代、身分の高い花嫁が「婚礼」のときに使用した、専用の駕籠(かご)のこと。現代の「ロールスロイス ファントム」のような、超高級車だったと言えば、イメージしやすいでしょうか。当時、女乗物に乗った花嫁を主役に、華やかな婚礼行列が行なわれたのです。
外装は漆塗り、内装には装飾画が施されて、とても豪華。種類としては、以下の全5つが存在します。
黒漆塗金蒔絵女乗物(くろうるしぬりきんまきえおんなのりもの)
ビロード巻女乗物
朱漆網代女乗物(しゅぬりあじろおんなのりもの)
青漆塗女乗物(せいしつぬりおんなのりもの)
茣蓙打女乗物(ござうちおんなのりもの)
なかでも最上位と言われたのが、「黒漆塗金蒔絵女乗物」です。当時の花嫁憧れの女乗物だったと言っても、過言ではありません。
そんな憧れの黒漆塗金蒔絵女乗物が、2018年(平成30年)に縁あって、三重県桑名市にある「東建多度カントリークラブ・名古屋」(ホテル多度温泉)に展示されることになりました。その名も「黒漆塗葵紋津山散蒔絵女乗物」(くろうるしぬりあおいもんつやまちらしまきえおんなのりもの)です。
残念ながら、こちらを譲り受けたときにはすでに、経年による埃垢や漆塗の亀裂、剥離剥落が見られるなど、かなり損傷している状態でした。
しかし、かつての花嫁憧れの女乗物であり、とても希少で価値ある文化財(美術品)。このまま朽ち果てさせるのではなく、修復(しゅうふく:傷んだ箇所を直して、もとのようにすること)をすることで、再びたくさんの人に観てもらいたい。そんな想いから、三重県桑名市無形文化財で塗師である漆工藝 塗師音(ぬしおと)の「山本翠松」(やまもとすいしょう)氏にお願いして、修復作業を行なうことにしたのです。
丸に三葵・津山葵
黒漆塗葵紋津山散蒔絵女乗物は、江戸幕府8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)のひ孫にあたる「箏姫」(そうひめ)の婚礼に作られたと伝えられる物。
全体が黒漆塗り仕上げ。全面に金蒔絵で、箏姫嫁ぎ先の津山松平家家紋「津山葵」(つやまあおい)と、実家の越前松平家家紋「丸に三葵」(まるにみつばあおい)のふたつの家紋が描かれた、たいへん豪華な仕様となっています。
なお、越前松平家の「松平治好」(まつだいらはるよし)が、箏姫の父。母が、吉宗の次男「宗武」(むねたけ)の8女「定姫」(さだひめ)です。
漆は、海外では「JAPAN」(ジャパン)と呼ばれる、日本独自の伝統工芸です。漆の木から採取した樹液を加工した「ウルシオール」を主成分とする、天然樹脂塗料のこと。
漆塗膜(うるしとまく:漆塗装により形成された皮膜)は堅く、現代の一般的な化学塗料よりも強靱で優れていると言われています。それでも、長い年月が経つと、割れや欠けが起こりますが、他の塗料とは違ってとても柔軟な性質のため、修復することも可能。つまり、漆塗りは何回も塗り重ねて研ぎだすことで、再生ができる素材なのです。
黒漆塗葵紋津山散蒔絵女乗物の劣化状態を、塗師・山本翠松さんに確認して頂いたところ、著しく劣化・損傷していることが判明しました。
とは言うものの、歴史・文化財的に価値が高く、稀少な乗物です。今回は、「本質的な価値を損なわないこと。オリジナル本来の姿を甦らせること。」を基本方針として、現状維持の修復を行なうことにしました。
まずは、全体的な埃の堆積や動物の糞尿などの汚れを取り除く作業。次に、細部まで徹底的にきれいに清掃し、亀裂、欠損部分がある箇所においては、最小限の漆修復を行なうと決めたのです。
綿棒で汚れを取る様子
まずは、埃の堆積や動物の糞尿などの汚れをクリーニング。「精製水」を布や脱脂綿などに含ませて、丁寧に拭き取りました。範囲は外装部と内装部のすべてです。
この結果、黒漆塗葵紋津山散蒔絵女乗物は修復跡があることが判明。しかも、「国内」で修復された箇所と「外国」で修復された箇所のあることが分かったのです。
国内の修復としては、外装・内装に描かれた唐草模様に手直しをした形跡があるところ。外国での修復としては、蠟(ろう)のような洋塗料が全体的に塗られているのを確認。なぜ外国なのかと言うと、日本では洋塗料を塗って、漆工品を仕上げるという作業工程自体が存在しないため。洋塗料は不要と判断し、可能な限り除去しました。
保湿している様子
次は保湿。木材で囲いを作り、その上に精製水を含ませた布を掛けて、女乗物全体を包みました。保湿するのは漆塗膜に柔軟性を持たせるため。保湿することにより漆塗膜がどのように変化するのか分からないので、慎重に行ないました。
シンバリ
外装、右側、左側、正面上(屋根開閉部)、内装正面敷居右部裏に損傷を確認。これ以上のダメージを防ぐために、漆塗膜剥離箇所の接着を行ないました。
割れて浮いている剥離剥落箇所に、「麦漆」(むぎうるし)を注入します。麦漆とは、生漆(きうるし)とグルテン(小麦粉)を練り合わせた物。漆は、乾燥するのに時間がかかるため、表面が浮いてこないように「シンバリ」で圧着する必要があります。
シンバリとは、均等な力でしっかりと圧着するための技法のこと。漆修復で行なわれる伝統的な方法です。
漆を塗る様子
漆塗膜が圧着したら、外装・内装にできた亀裂などの小さな欠損部分は、「錆漆」(さびうるし)や「刻芋漆」(こくそうるし)で形成します。
錆漆とは、生漆と砥粉(とのこ:砥石の粉末)の水練りを合わせて作った漆下地のこと。刻芋漆とは、漆に木片や繊維片を適量混合し、パテ状に練り合わせた物です。錆漆、刻芋漆で埋めたあと、漆を塗布し、全体との調和を図りました。
下記をご覧の通り、黒漆塗葵紋津山散蒔絵女乗物はきれいになりました。
外装
修復前
修復後
亀裂が埋まりました。
外装2
修復前
修復後
剥離欠損が埋まりました。
内装
修復前
修復後
剥離欠損が埋まりました。
かつぎ棒
修復前
修復後
欠損が埋まりました。
今回、修復にかかった期間は、およそ2ヵ月。埃まみれで、今にも朽ち果てそうだったかつての姿が一新。清潔で、花嫁も安心して安全に乗れる女乗物に生まれ変わりました。
「何百年も前に作られた、もとの尊い姿を守って作業しなければいけない点には、とても神経を使いました。割れていた箇所が完璧に付き、美しく甦った姿をぜひ観て頂きたいです」と、山本翠松氏。
修復された黒漆塗葵紋津山散蒔絵女乗物は、漆黒に金が映え、まるで動く華の御殿です。